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リオパラリンピック 閉幕

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9月7日から開催されてきたリオデジャネイロ・パラリンピックが18日、閉幕しました。

南米初の障害者スポーツの祭典となった今大会には、

159の国・地域から4300人以上の選手が参加。

12日間にわたり、計22競技528種目が行われました。

日本代表チーム、そして選手はもちろん、

世界のパラリンピアンの皆さんから、たくさんの勇気と感動をもらいました。

閉会式では、フランス選手団の皆さんは、ブラジルへの「感謝の横断幕」とともに入場しました。

12日間にわたって燃え続けた聖火は、人々が手にした風車からの風で聖火が消えました。

感動的なフィナーレでした。

今大会での各国の最終メダル獲得数は、以下の通りとなりました。

【国別メダルランキング】

金 銀 銅 合計

1 中国 107 81 51 239

2 英国 64 39 44 147

3 ウクライナ 41 37 39 117

4 米国 40 44 31 115

5 豪州 22 30 29 81

6 ドイツ 18 25 14 57

7 オランダ 17 19 26 62

8 ブラジル 14 29 29 72

9 イタリア 10 14 15 39

10 ポーランド 9 18 12 39

64 日本 0 10 14 24

そして、24個の獲得した日本人全メダリストの皆さんをご紹介します。

【日本人メダリスト】

銅メダル 9/ 8(木) 藤本聰 選手 [柔道]男子66kg級

銅メダル 9/ 8(木) 津川拓也 選手 [水泳]男子100m背泳ぎ S14 1分03秒42

銀メダル 9/ 8(木) 廣瀬誠 選手 [柔道]男子60kg級

銅メダル 9/ 9(金) 廣瀬順子 選手 [柔道]女子57kg級

銅メダル 9/10(土) 正木健人 選手 [柔道]男子100kg超級

銅メダル 9/12(月) 芦田創 選手・佐藤圭太 選手・多川知希 選手・山本篤 選手

          [陸上競技]男子4×100mリレー T42-47 44秒16

銀メダル 9/12(月) 木村敬一 選手 [水泳]男子50m自由形 S11 26秒52

銀メダル 9/12(月) ボッチャ・団体 日本代表 [ボッチャ]混合団体 BC1-2

銅メダル 9/13(火) 山田拓朗 選手 [水泳]男子50m自由形 S9 26秒00

銅メダル 9/13(火) 木村敬一 選手 [水泳]男子100m平泳ぎ SB11 1分12秒88

銀メダル 9/13(火) 佐藤友祈 選手 [陸上競技]男子400m T52 58秒88

銅メダル 9/14(水) 辻沙絵 選手 [陸上競技]女子400m T45/46/47 1分00秒62

銅メダル 9/14(水) 上地結衣 選手 [車いすテニス]女子シングルス

銀メダル 9/14(水) 藤田征樹 選手 [自転車]ロード男子タイムトライアル C3 39分30秒41

銀メダル 9/14(水) 木村敬一 選手 [水泳]男子100mバタフライ S11 1分02秒43

銀メダル 9/14(水) 鹿沼由理恵 選手 [自転車]ロード女子タイムトライアル B 39分32秒92

銅メダル 9/15(木) 齋田悟司 選手 [車いすテニス]男子ダブルス

銅メダル 9/15(木) 国枝慎吾 選手 [車いすテニス]男子ダブルス

銅メダル 9/15(木) 木村敬一 選手 [水泳]男子100m自由形 S11 59秒63

銀メダル 9/15(木) 佐藤友祈 選手 [陸上競技]男子1500m T51/52 3分41秒70

銅メダル 9/17(土) 中島啓智 選手 [水泳]男子200m個人メドレー SM14 2分15秒46

銀メダル 9/17(土) 山本篤 選手 [陸上競技]男子走幅跳 T42 6m62

銅メダル 9/18(日) ウィルチェアーラグビー日本代表 [ウィルチェアーラグビー]混合 オープン

銅メダル 9/18(日) 岡村正広 選手 [陸上競技]男子マラソン T11/12 2時間33分59秒

銀メダル 9/18(日) 道下美里 選手 [陸上競技]女子マラソン T11/12 3時間06分52秒

日本のメダル獲得ランクは、全体の64位でフィニッシュしました。

オリンピックもパラリンピックも、どうしてもメダル獲得数に目が行きがちですが、

本来オリンピックは4年に一度開催される世界的なスポーツの祭典で、

『スポーツを通した人間育成と世界平和を究極の目的』としています。

その“もうひとつのオリンピック”である、パラリンピックも意義は同様です。

パラリンピックの起源は1948年、医師ルードウィッヒ・グッドマン博士の提唱によって、

ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院内で開かれた、アーチェリーの競技会です。

第2次世界大戦で主に脊髄を損傷した兵士たちの、“リハビリの一環”として行われた

この大会は回を重ね、1952年に国際大会になりました。

さらに1960年のローマ大会からはオリンピック開催国で、1988年のソウル大会からはオリンピックの直後に同じ場所で開催されるようになりました。

当初はリハビリテーションのためのスポーツだったパラリンピックですが、

現在は、アスリートによる競技スポーツへと発展。

出場者も「車いす使用者」から対象が広がり、

もうひとつの(Parallel)+オリンピック(Olympic)という意味で、

『パラリンピック』という公式名称が定められました。

メダルの獲得以上に得るものがあるのがオリンピック、パラリンピックではないでしょうか。

特にパラリンピックには、全ての人間に対して

日常生活の中で少し鈍ってしまった心や感覚を呼び起こさせてくれるような、

そんな強い刺激と感動を与えてくれました。

2016リオ大会組織委員会のヌズマン会長も

「任務は完了した」

と五輪、パラリンピックの終了を喜び、

ブラジル国民が示した『責任感や勇気、創造性、情熱』を称えました。

その『責任感や勇気、創造性、情熱』は、オリンピアン、パラリンピアンからも、

充分に伝わってきました。

オリンピック、パラリンピックの意義は、メダルの数や順位ではありません。

アスリートやアスリートを取り巻く関係者、多くの方々が、

「目の前の“課題”や“目標”に向かって、いかに努力したか」

ではないでしょうか。

その過程やそれに真摯に取り組む姿勢に、大きな意味があり、感動があります。

このたびのリオパラリンピックのまとめに、次の写真をご紹介します。

この写真は、陸上競技「走り幅跳び」の中西麻耶 選手の後ろ姿です。

実は、この写真も、冒頭の「閉会式花火」の写真も、同じカメラマンの方が撮影されました。

そのカメラマンは、ジョアン・マイア(Joao Maia)さんです。

カメラマンの方を、なぜ最後に取り上げたかといいますと・・・

このマイアさんは『被写体を目にすることができないカメラマン』だからです。

現在41歳のマイアさんは、28歳のときに、目の炎症の一つであるブドウ膜炎にかかって失明。

視力は一年をかけて衰えていき、

やがては「近くで見て色と輪郭を判別するのが精一杯」、という状況になりました。

「ではどうやって写真を撮るのでしょうか?」

マイアさん曰く、

「写真を撮るのに見る必要はありません。 僕の目は心にあります」・・・。

『心の目とは?』

私たちには、想像ができません。

しかし、マイアさんの作品は雑誌に載せられるレベルで、

目の見える普通のプロが撮ったと言われても、何の不思議ではありません。

例えば、フランスの幅跳び選手、マリー・アメリー・レファー選手が世界新記録を出した際の

ジャンプを写した1枚には、

着地する選手の表情と、舞い上がった砂がきれいな弧を描く様子が捉えられていました。

写真共有アプリ「インスタグラム(Instagram)」のマイアさんのアカウントには、

すでに数千人のフォロワーがついています。

マイアさんは、サンパウロの郵便局で働きながら杖の使い方を学び、ブライユ式の点字の講座を

受講しました。

写真に興味を持つようになったのは、この頃のことだそうです。

「写真で大切なのは感性です。

 写真を使えば、自分が認識している世界、物の見え方、感じ方を描き出すことができる。

 これは奇跡のようなことだと思います」

と、マイアさんは写真の魅力について、そう語ります。

代わりの「目」の助けも借りながら 片手にカメラ、片手に杖を携え、

マイアさんはパラリンピックの会場に姿を現し、他のスポーツカメラマンの輪に加わります。

スポーツ写真の撮影は、昨年行われたリオデジャネイロ五輪のプレ大会で経験済みですが、

そのときは観客が少なかったので、マイアさんにとって“写真撮影の生命線”でもある

「音を聴くこと」に全神経を集中できました。

しかし、 パラリンピックでは、コースの大きさや長さの問題で、撮影は困難だと悟りました。

「一定の距離まで近づくことができれば、選手の鼓動や、足音を感じることができます。

 そして、それを頼りに撮影の態勢に入れます。

  ただ、それには騒音と距離があると、難しいことがわかりました」

写真を真剣に学び始めた2008年には、昔ながらのカメラを使っていたのですが、

現在のマイアさんの“相棒”は、『最新世代のスマートフォン』です。

なぜなら、スマートフォンのほうが、断然フォーカスが合いやすいからだそうです。

また、代わりの「目」と呼ぶ人たちの助けも欠かせないそうです。

その2人、レオナルド・エロイコさんとリカルド・ロハスさんは、

携帯電話のカメラを使ったアート写真をPRする組織の「モブグラフィア(Mobgrafia)」

のメンバーで、マイアさんともう一人、車いすの写真家の方が、

このモブグラフィアの勧めでパラリンピックの写真集を制作しています。

「2人がいなかったら何もできません。

 例えば編集。

 これは僕には絶対にできません。

 それに、ソーシャルネットワークに写真をアップしてくれるのも2人です」

とマイアさんは話します。

マイアさんはトラックに背を向け、幅跳びの砂場に居場所を見つけます。

小さな競技スペースと、目前で繰り広げられるドラマは、 マイアさんにとっては完璧な環境です。

「いい感じです。 今は砂をならしている。 そうでしょう?」

と言うと、マイアさんはじっと耳を澄まします。

「倍率はこれで合ってますか? 選手が走りだしたら教えてください。 準備しますから」

選手が宙を舞い、マイアさんは写真を次々に撮っていきます。

フランスのレファー選手(*前述)がフランス国旗を体に巻き付けている写真。

オランダのマーリーン・ファン・ハンセヴィンケル選手と

英国のステファニー・リード選手が、おしゃべりをしながら競技終了を待っている写真。

「動きだけじゃありません。僕はそうした選手の親密さもとらえたいんです」

マイアさんは話します。

実は、マイアさん自身もパラリンピック出場を目指した時期があったそうです。

しかし、選手たちのレベルはあまりにも高く、競技者としての選択は断念。

現在は、郵便局からの給付金で生計を立てつつ、

カメラを使ってそスポーツを追う毎日を過ごしています。

次の目標は決まっています。

2020年の東京パラリンピック。

「少なくとも、夢ではあります」

マイアさんの挑戦は、これからも続きます。

このたびピックアップしました盲目のカメラマン、ジョアン・マイアさんの前向きな生き方は、

世界の偉人の一人、ヘレン・ケラー氏の姿勢とどこか重なります・・・。

1882年、2歳(生後19か月)の時に高熱に伴う髄膜炎に罹患し、かろうじて一命は取り留めたものの、聴力、視力、言葉を失います。しかし、家庭教師として派遣された弱冠20歳のアン・サリヴァンは、幼い頃から弱視であったためその、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えました。

そして、ついにヘレン・ケラーは話せるようになりました。成長したヘレン・ケラーは、日本を含め、世界各地を

歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くしたことは、とても有名な話です。

You have set yourselves a difficult task, but you will succeed if you persevere; and you will find a joy in overcoming obstacles.

- Helen Keller (ヘレン・ケラー) -

あなたは困難な仕事を自分に課しましたが、あきらめずにがんばれば、うまく行くのです。

そして、成功への障害を克服することが、喜びとなるでしょう。

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